今日のチャンス 2022.1.10
今日もこちらに。
ノート買いに行こうと思ったんですが、
機を逸してしまいました。
明日行けるかな。雨予報だけど。
今日のチャンス
・思い立って子らへの荷出しを今日終了。すっきりした。
一旦切って終わらせてしまうことが、次への一歩になる(かな)
・予定を変えると、ことがまたはいってくるが、それを終わらせると一歩進む。
(これは1個目と似ているけど、違うもの)
・NHKで「東洋医学のホントのチカラ」視聴。紹介されてたヨガのポーズ。全部週1やっているものだった!やっぱり意味があったのね。不調が解消していたのは偶然じゃなかったんだという気づき。深呼吸で横隔膜を動かす意味は、その周辺に自律神経に関するツボ?がたくさんあるから。呼吸で横隔膜を上げ下げすることで自律神経を交感神経から副交感神経に変えるから、リラックスし安定するというのが納得できた。
#今日のチャンス 2022.1.9
便宜的に、しばらくの間こちらを #今日のチャンス
の置き所にします。
ノートを買うまでの暫定措置。
#今日のチャンス についてはこちらの本を参考にしています。
まだ読みかけなので、しばらくは簡単な書きようになるだろうと思います。
これまでも、「今日あったいいこと3つ」なんていう日記っぽいものは書いてきました。
でも、吐き出すだけな感じで、その効果がよくわからなかったんです。
そこにとても不満を、そして何か方法があるはずだとは思って来ました。
友人から教えてもらったこのミーニングノートですが、
友人のブログを読み、なるほどと思ったのです。
*1
学生にいつも自分が言ってることだし、個人的にも振り返りの大切さは知っていたはずでした。
でも毎日書いて週末に、とか1ケ月ごとにとかはやってなかった。
変に計画的にやってる感じがしていたのだけど、
なんとなく、これはいけるんじゃないか。
というか、「この方法まだ試してないぞ」「やってみる価値あるぞ」「今までやっていきたことの第二段階がここかも」みたいな思いが湧き出てきて、
ちょっとわくわくするのです。
コツは「1ミリでも心が動いたこと」らしい。
*2
と前置きが長いのだけど、早速。
■2020年1月9日(日)の今日のチャンス
・息子が寮に戻った。しばらくは自分のことに時間を使えて没頭できそう。
時間管理していきたい。
・「ミーニング・ノート」を読み始め、同時に書き始めた記念日。思い立ってやっと書くことができた。ノートを買いに行こう。
・NHK杯将棋トーナメントを視聴中に、佐世保のKおばちゃんから電話をもらった。元気そうな声を聞けてうれしかった。NHK杯をみて連想ゲーム的にどうしているかなと思ってかけてきてくれたんだろうな。その思いが嬉しい。今年は会いに行きたいな。
価値は命に宿る
自分の市場価値を高める的な考え方は、人間を命としてではなく道具や情報や商品としてしか捉えなくなる危険性がある。そして「価値のない人間は生きる値打ちもない」みたいなことになる。違うだろう、と。価値は命に宿るものだろう、と。命を見ろ。心のない言葉を重ねても、後にはなんにも残らないぞ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) February 10, 2021
この言葉に救われた。「価値は命にやどるもの」。
生きていていいんだと思わせてもらえる。
価値なし、と思いたくなくて、でもどこかで「価値がなければ生きる値打ちもない」的に思う自分がずっと居て辛かった。
だからどうにか、がむしゃらにやって、価値がないと思われない自分を作ること、みせることに必死になってきた。
でもそれは、自分を生きることとは反した生き方であるように思う。
「私には価値がない」という私に、
「人は誰にも価値はある」と夫はいった。
その言葉にもずいぶん救われた。
今私は、人に価値があるかないかをジャッジすること自体に嫌気がさしている。
この坂爪さんのツイートを個人FBに投稿したら、
ある方から、賛成できないとコメントがついた。
そのこと自体に、まずはひどく傷ついた。
否定された気がしたのだ。
且つ、私が救われた「価値は命に宿るもの」も否定されたと感じた。
コメントを書いた人は、キャリア支援をしている人なので、
今の社会を生きていくには、自分の市場価値を高めること、それが武器だと指導されているのだろう。
それはよくわかる。
でも、それ以前の状態の人がいるのだ。
やっと生きてていいんだと思えている人に、刃を突き付けられた気分だ。
社会にはそっちの方が多いのだと思う。
なんで仕事になったらそうなってしまうのだろう。
仕事の場ではなんで価値がないとみとめられないのだろう。
時間とお金だけをてんびんにかけて、
効率化することがお金を産む。お金を産むことが社会貢献だ。
という方が、野蛮じゃないのか。
それがあってもいい。
でもそうでない場、ゆとりのある場、人間らしい場は作れないのだろうか?
この話には段階があると思う。
価値のない自分を認められない人に、「価値は命に宿るものだろう、と。命を見ろ。」と言ってあげることはとても必要なことだ。
同時に社会にも問いたいところ。
今の社会で生きていくには、この言葉はきれいごとなのだという。
「障害を持っている人たちに寄り添い、共にキャリアを考えてきた私には、この人の意見は、単なるきれい事に思えてなりません。」
この言い方ってなんなんだろうね。
本当にマイノリティの人たちに寄り添うならば、
この根本もわかってほしいと思う。
片方だけでは、結局そういう社会の片棒を担ぐだけではないの?
第七チャクラが開かれたおはなし
まさかと思った。
もう10年以上の付き合いになる方から、
「チャクラ」という言葉が出た。
うすうすは思っていたんだよね。
この方はきっと大いなる何かとつながっていらっしゃる。
と書くと、変な宗教のような感じに聞こえるかもしれない。
私たち人間は全部、例えば宇宙だとか時間だとか、
一般に私たちの目にはみえないけれどあるなにかとつながっているものだ、
と私は思っている。
だから、大いなる何かとつながることは、特別なものではない、はず。
ただ、この手の話をするには、人を選ぶ。
全く信じない人からすると、ちょっとこんなことが話に出ると
それを全拒否される場合がある。
そこで関係が切れることもあるから、なかなか言えない。
スピリチュアルという言葉にも、抵抗がある人が多いですよね。
いい説明をしてるサイトがあったので、拾って来ました。
~~~
スピリチュアルって多義的な言葉で、
独特な受け取り方をされています。
例えばこんな意味で使われています。
オカルト
霊、霊的体験、お化け
不思議な現象
宗教
占いの一種
~~~
これ、わかりやすいと思う。
スピに抵抗がある人は、こういうのを信じない!って方がほとんどじゃないかな。
後、これらを商売にしている方が多いので、ぼられたとか
そういう方々が必ずしも人間として性格がいいとは限らないので笑
痛い目にあったとか。
(ええ、私もその経験があります、何度か。)
難しいなあと思いつつ、
私は一通りスピ系は経験してきたという自負があるので、
スピリチュアルが
上に書いてあるようなものではないことはわかっている。
でもそう思っている人も多いので、
まあ広義のスピリチュアルの一部だと思えばいいんじゃないかな。
先ほど引用した文の後の方に書いてある言葉が、
私の思っていることと大体合うので、引用させてもらおう。
「スピリット」も英語の辞書を調べてみると
「生体に命を与える原理」
(an animating or vital principle held to give life to physical organisms)
https://www.merriam-webster.com/dictionary/spiritが挙がっています。
肉体だけでは動かない。
身体が動くためには、何か他の原理が必要だ。その動かす原理がスピリットだ、というのです。
肉体にスピリットという命、生命力が流れ込んでいるから、僕たちは生きている。
その意味では、スピリットは僕たちの「本質」です。
自分の「本質」が、単なる肉体ではなく、
永遠のスピリットであること。「スピリット」が、僕たちの本質なのです。
「スピリット」とは「命そのもの」であり、
生きるエネルギーのことです。
僕たちが肉体を持って生きているのも、
「スピリット」という生命エネルギーが
僕たちの肉体に流れ込んでいるからです。僕たちは肉体だけじゃない。
肉体はないけれど、別の自分もいる。
それが「スピリット」。こういうことに気づいているのが
スピリチュアルであることです。そして、机上の知識ではなく、
実際に肉体を持った自分が
スピリットとともにあることです
「自分の意思=スピリットの意思」だと知り
自分を尊重する。自分=スピリットという聖なる存在
であることを知り、自分を愛する。そして、スピリットとともにあるとき
宝箱が勝手にあいて、
そのなかから出てくるギフト・出来事を
喜び、楽しむ。
言葉だけだと、どこまで伝わるのかわからないけど、
私はさっき書いた通り一通りこの手の道を通ってきたもので、
今、この文章を読んで非常にしっくりくる。
「自分には何か大きな存在があり、
自分を大事に、自分を尊重している人は
大いにスピリチュアルだといえます」とこの方は書いてあるけど、
まさにと思います。そういう意味の「大きな存在」ですね。
長くなってしまったけど、
その10年以上のお付き合いのある方の話に戻る。
彼が若い頃、大きな事故にあい、死ぬかもと思ったけど死ななかった、
という話を聞いたことがある。
そこで、生きるとはということをとても考えるようになった、
ということも言われていたと記憶している。
彼は話す時に、手のひらを上にして何かを感じるようにしながら、
ゆっくりと話されることがあって、
彼の話は、もちろん彼の知識から出てくる言葉なのだが、
今目の前にいる私に、適切な言葉を自然と選んでくれているような感覚がある。
私は彼のことをとても信頼しているので、
自分の体調のことも、少し悩んだりしていることも話したりしている。
先日も、「体調どうよ」みたいな話から、
私は、「自分の体が敏感なので、気候やちょっとした変化に波を感じてしまう、
このことについては諦めたというか、もうそんなもんだから仕方ない。
そういう自分で生きていくしかないという、受容みたいなことはできるようになった」というような話をした。
その方は笑って「悟ったんですね」といった。
悟ったかどうかはわからないけど、自分の体についてはそういう性分なのでつきあっていくしかないことは理解できたし、そのことについてはあまり深く悩むこともなくなった。
だが、今私の中で処理できないことは、他者や外部要因からの影響を強く受けてしまうことだ。
私は診断を受けたことはないがおそらくHSPだ。病名としては自律神経失調症という風になっているのはおそらくこれが原因。で、これは性質なので変えられない。
変えられないので仕方がないのだが、自分を保てないほどの外部からの影響は辛い。
そんな話をした。
彼からは、逃げることと自分から入っていくことの2つがあるという話を聞いた。
一般的には、自分が傷つけられると思ったら、とにかく逃げる。場から離れる。トイレに行くというのでもいいとのことだ。
これは、実は実行している。もう3年位かな。
そういえばこの話も、この方から聞いたのではなかったかなと思いだす。
「実は」と私は切り出した。
どうにかしたい問題があった。
「私は、大きな声や罵声、人が苦しむ声を聞くのがものすごく耐えられないんです。
だからそういうのにあうと逃げるようにしているんです。
でも、逃げられないこともあるんです。
うちの夫は持病でものすごく苦しむことがあって、その苦しみ方が酷いんです。
でも私が何をしても治るものでもないから、発作が始まると
ああまた始まったなと思って、できるだけ聞こえないところに行ったりもするんですが。
先日は、始まったので別の部屋に移動しようと部屋を出たとたんにもっとひどくなって、介抱しないといけなくなったんです。逃げられないんです。」
本人も大変なのはわかっているけど、私の自律神経もやられてしまって、その夜眠れなかったりするのだ。本人はスース―寝ていたりするのに。睡眠導入剤を飲んでも効かないことがあって、参った。
(ついでにいうと、誰かの文句を言ったり、人を否定する言葉を書く人も苦手だ。だから最近のSNSは流してみるようにしている。)
私の話をじっと聞いて、彼はもう一つの方法を解説してくれた。そしていくつかの手法を教えてくれた。
ここではそれは割愛する。
なんだかんだと話をしているうちに、
不意に彼が「チャクラというものがあってね」と言い出した。
冒頭に書いた通り。
彼は、科学バリバリの世界に生きている人なので、
その言葉が彼の口から出てくること自体に驚いた。
彼は、私がスピ系についてある程度知識があることは知らないので説明をしてくれる。
そして私の顔をじっと見て、そして目をつむり、「えーっとね」といいながら、
「第七チャクラが閉じてるかな」という。
えええ!
わかるの?
オーリングでためしてみることに。
(オーリングについても説明されたけど、知っていた😊 されるのは久しぶり。)
オーリングも意識的な影響もあるとも言われているけれどね。
チャクラを確認するオーリングテストは、部位によってひらく、離れるは逆の意味になるらしい。だからほんとにわかっている人しかできないと思われる。
自分としては、詰まってるとしたら胸の第4チャクラか喉の第5チャクラくらいかなと思っていたら、まさかの第7チャクラ(脳天)。一つ一つのチャクラをオーリングで確認していったが、そうだった。
紫の服を着ていきたくなった理由がわかった気がした。
(その日は赤のニットでいくつもりが、どうしても紫がしっくりくるので変えたのだった)
第7チャクラの色は紫なのです。
後付けではあるけれど、
周りにいろんなエネルギーがあることはわかっていたのに取り込めない、繋がれないというのが、私のじれじれした思いとしてあった。
「どうすればいいのかわからない」というのが私の口癖にもなっているのだけど、
私は、頭で考えてもわからないことは、方法がわかれば解決することが往々にしてある、と思っている
蛇口があってもどう出せばいいのかわからなければ水は飲めない。
でも、蛇口のひねり方がわかれば水が出る。
あとは口を蛇口に近づけるとか、手ですくうとかコップで受けるとか、その後の方法論でを選べばよいが、まずは水を出す方法を知らねばのぞみは達成できない。
私には力があるし、周りにも助けはある。でもそれを自分の体をしてどう取り込めば、それらを活用していけるのか、まったくわからなかった。
そんなことをふと思い出しながら、
とはいえこれからどうしたら、、と思っていたら、
「あけてあげましょう」と言われた。
おお!
私は、目を見開いた。それを同意としたのだろう彼は
「じゃ、目を閉じてね」といい、5秒くらいだったろうか。
「はい。終わりました」という声で目をあけた。
何も感じないし、なにがなされたのかもわからないけど、
私の第7チャクラはこうして開いたのだった。
ほお。すべてあいたのか~。嬉しい。
というのが率直な感情。
他者から開いてもらえるものなのか~と驚いたのもひとつ。
ただこれは信頼している方だから、OKでもあった。
自力じゃできないこと(だと私が思い込んでいた)だったから。
彼はにっこり笑って「お年玉です」といった。
いつでも、誰にでもできるものでもない。
前のあなたなら理解できなかったと思うけど、
今のあなたはいろんなことがわかってきた。だからできた、
みたいなことを言われていた。
これが、本当のことなのかどうなのかは正直わからない。
でも、ほっとした。
やっとここまで来たという気持ち。
あと一押しを押してもらえたという気持ち。
一人で頑張り方がわからずにいた私に、
ほんとにお年玉をいただけたな💗という気がした。
無邪気な子供のような感覚で、
「おじちゃん、あたまなでてくれてありがと」みたいな感じ笑
頭は撫でられてないけどね。
このことは内緒の話。
でも忘れたくないので、文章にしてみた。
わたしのことも、彼のことも、
きっと誰にもリアルにはわからないと思うけど、
もしわかってしまったとしたら、ないしょにしておいてね。
ここに書く話は、ないしょのはなし。
毛布でぬくぬく 2020.11.30
いつも嬉しそうにくるまっている。
毛布にくるまって楽しそうにしている。
好きとは行動を促すものだということがよくわかる。
肌感覚で自分の好きを楽しめるというのは、手軽で幸せなことなんだろうなぁと思う。
結構これって大事なことだと私は思っている。
鎮国寺に行ってみた②
さて、いよいよ本堂に。
本堂には、5つの仏さまが祭られています。
右から、如意輪観音、釈迦如来、真ん中に大日如来、その横に薬師如来、阿弥陀如来と続きます。
仏様が衆民救済のため、神に姿を変えて現れたとする本地垂迹説があるらしいのです。神仏同体論というとわかりやすいですね。
如意輪観音=宗像五社の織幡明神の本地仏。
釈迦如来=宗像大社中津宮の御祭神・湍津姫神(たぎつひめのかみ)の本地仏。
大日如来=宗像大社沖津宮の御祭神・田心姫神(たごりひめのかみ)の本地仏。
薬師如来=宗像大社辺津宮の御祭神・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)の本地仏。
阿弥陀如来=この一帯を支配していた一族の神、許斐(このみ)権現の本地仏。
ここまでくると、神様や仏さまに本心でぶつかっていくしかありません。
自分が今日いろんな神様仏様に対してお詣りした時の思いが混在して、ぐちゃぐちゃになってきました。
正直なところ、自分の思いがWhyなのかHowなのかWhatなのかわからなくなっているところもあります。
でも私は幸せになりたいのだという思いは、変わらないのです。
やりたいことも変わらない。
捨てたいものもそう。
シンプルだけど、シンプルな言葉で参ると、アバウトにしかとらえてもらえそうになくて。参りながら、いやこの言葉ではないな、もっと具体的に、、と思いながら参ります。毎回のお詣りはこうしてぐちゃぐちゃとしたものになり、毎回時間がかかります。そして何を結局参ったのか、覚えてないような状態に^^;
最後は、護摩堂へ。
不動明王様が祭られています。不動明王は大日如来の化身とも脇侍とも言われているみたい。大日如来=天照大神と同一視もされているらしい。
今日の一日の締めくくり。
さっきと同じように、参りました。
問答のようになるのです。
私の願いは、、、とお願いをしていると、あれ、もっと具体的な直接的な言葉の方がいいなと思い、でも「これがほしい」というのでもない。こうでもないああでもないと思い返しながら、言葉を探していきます。神様の前で、自分を掘り下げているのかもしれません。
覚悟を持って神様の前に立ち、言葉を発しているはずなのに、