価値は命に宿る
自分の市場価値を高める的な考え方は、人間を命としてではなく道具や情報や商品としてしか捉えなくなる危険性がある。そして「価値のない人間は生きる値打ちもない」みたいなことになる。違うだろう、と。価値は命に宿るものだろう、と。命を見ろ。心のない言葉を重ねても、後にはなんにも残らないぞ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) February 10, 2021
この言葉に救われた。「価値は命にやどるもの」。
生きていていいんだと思わせてもらえる。
価値なし、と思いたくなくて、でもどこかで「価値がなければ生きる値打ちもない」的に思う自分がずっと居て辛かった。
だからどうにか、がむしゃらにやって、価値がないと思われない自分を作ること、みせることに必死になってきた。
でもそれは、自分を生きることとは反した生き方であるように思う。
「私には価値がない」という私に、
「人は誰にも価値はある」と夫はいった。
その言葉にもずいぶん救われた。
今私は、人に価値があるかないかをジャッジすること自体に嫌気がさしている。
この坂爪さんのツイートを個人FBに投稿したら、
ある方から、賛成できないとコメントがついた。
そのこと自体に、まずはひどく傷ついた。
否定された気がしたのだ。
且つ、私が救われた「価値は命に宿るもの」も否定されたと感じた。
コメントを書いた人は、キャリア支援をしている人なので、
今の社会を生きていくには、自分の市場価値を高めること、それが武器だと指導されているのだろう。
それはよくわかる。
でも、それ以前の状態の人がいるのだ。
やっと生きてていいんだと思えている人に、刃を突き付けられた気分だ。
社会にはそっちの方が多いのだと思う。
なんで仕事になったらそうなってしまうのだろう。
仕事の場ではなんで価値がないとみとめられないのだろう。
時間とお金だけをてんびんにかけて、
効率化することがお金を産む。お金を産むことが社会貢献だ。
という方が、野蛮じゃないのか。
それがあってもいい。
でもそうでない場、ゆとりのある場、人間らしい場は作れないのだろうか?
この話には段階があると思う。
価値のない自分を認められない人に、「価値は命に宿るものだろう、と。命を見ろ。」と言ってあげることはとても必要なことだ。
同時に社会にも問いたいところ。
今の社会で生きていくには、この言葉はきれいごとなのだという。
「障害を持っている人たちに寄り添い、共にキャリアを考えてきた私には、この人の意見は、単なるきれい事に思えてなりません。」
この言い方ってなんなんだろうね。
本当にマイノリティの人たちに寄り添うならば、
この根本もわかってほしいと思う。
片方だけでは、結局そういう社会の片棒を担ぐだけではないの?